現在奥武鉄道を代表する観光資源ともなっている南会津支社管内の上岩線と白田線. この2路線は奥只見ダムの建設なくしては存在しなかった存在である.
話は明治期に遡るが、元々奥武鉄道では前身の中山道電軌が発送電事業を行っていた. 明治26(1893)年、中山道線戸田川岸~鴻巣開業と同時に埼玉県北足立郡新開村(現・さいたま市桜区新開)に新開火力発電所が開設され、鉄道の余剰電力を官公庁などに供給する事業を行っていた. 当時はまだ氾濫も繰り返していた荒川に面した新開にわざわざ火力発電所を開設したのは、水道も未整備の当時にあって万が一の火災の際の消防水利を荒川に求めたからだと記録が残るが、当初中山道線と荒川が最も近接する鴻巣町付近に設けようとしたところ建設資材の輸送を競合相手である日本鉄道に渋られ、都内から比較的近く水運により機材輸送が可能な新開村に適地を求めたとのことである. 荒川には羽根倉に江戸時代からの河岸が設けられていたが、この南側、秋ヶ瀬に新たな河岸を設けてここから資材搬入を行ったのは、羽根倉からでは余剰電力を売電するにあたって浦和町の中心部までやや遠く電線吊架にコストがかかるという事情を考慮したものであった. 新開村の発電所が稼働するとまもなく、明治27(1894)年には北足立郡浦和町と蕨町で官公庁とその周辺の民家を中心に配電事業を開始している. 10年後、明治37(1904)年には北足立郡浦和町に設立された浦和電燈(後の埼玉電灯)が見沼に設けられたとも県庁の裏手に設けられたとも言われるガソリン発電による一般家庭への配電を小規模ながら始め、埼玉県の県都、浦和町の配電事業を巡り競合するようになる. 中山道電軌では1893年鴻巣開業当時から電鉄会社の象徴として埼玉県内各駅の照明を電灯にしており蒸機列車が走る日本鉄道線との差別化を演出していたが、後には桜内幸夫、清水槌太郎などの投資家グループが加わった埼玉電灯が巻き返しを図り明治44(1911)年には埼玉電灯が東北本線(明治42(1909)年に国有化)浦和駅に32灯の電灯を導入、浦和町への街灯寄付も行うなど県都浦和におけるチーフエレクトリックカンパニーとしての存在感を強めて行く. 何より、埼玉電灯は明治37(1904)年設立時(浦和電燈からの改組)の取締役が当時浦和町長や埼玉県議会議長を歴任した大物政治家、大島寛爾であり、県政界とのコネクションも豊富であった.
そんな中中山道電軌は配電事業では劣勢に立たされるが、昭和になると川越電灯由来の西武大宮線(川越久保町~大宮)が事故を頻発するようになり昭和6(1931)年には同線の脱線による初の死亡事故が報道される. 官営鉄道の城下町としての性格を強め埼玉県における旧来の商都である川越に対するライバル心も燃やしていた北足立郡大宮町では旧川越電灯の流れを汲む帝国電灯に対する不買運動が活発化、中山道電軌はこの機に乗じて昭和12(1937)年に北足立郡大宮町の主に東部地区と、同片柳村、春岡村、七里村で配電事業を開始するとともに浦和市(昭和9(1934)年市制施行)東部にも進出している. この埼玉県内での配電事業拡大は、昭和9(1934)年に奥羽越鉄道と中山道電鉄(中山道電軌から改称)が合併、中山道電鉄の改軌によって同線の東京市電乗り入れができなくなり中山道線の営業成績が落ち込んでいたためそのリストラ策として従業員を配電事業に振り替えるという意味合いもあり、いわゆる関連事業の拡大によって鉄道事業の営業成績ぶれをバッファーしたいという意図も読み取れる. しかしこの時期の北足立郡大宮町と奥武鉄道は軌道移設問題(「第4回官営鉄道城下町に退けられた氷川の杜の電車」参照)などもあって良好な関係にはなく、町道への電線吊架の許可が下りないなど大宮町からの露骨な参入妨害もあり実際には大宮町内への進出は限定的なものになったようである. 第一、電力会社を選択するなどということが一般的でなかった当時、大宮町の住人の中には川越電灯への嫌悪と電気鉄道への嫌悪を区別できていない者も多く、電車会社の電気というだけで一緒に反対運動に巻き込まれたという言い伝えも残っているから、奥武鉄道配電事業の大宮進出が上手くいっていなかったことは想像に難くない.
やや話が逸れたが、こんなバックグラウンドを持つ奥武鉄道であったから発電、送電、配電の技術的バックグラウンドはその手の中にあった. しかし一般家庭への電力供給が進み沿線の都市人口が爆発的に拡大する中、たとえば埼玉電灯は自社での発電から利根発電からの受電に切り替えるなど競合他社は配電能力を増して行ったのに対して、奥武鉄道は自社鉄道線電化区間の逼迫する電力需要に応えるのがいっぱいとなり、後にはその電車電力も多くをかつての競合企業である埼玉電灯を呑み込んだ帝国電灯から受電するなど、配電事業の規模は縮小の一途を辿って行ったのである.
昭和20(1945)年8月、太平洋戦争に敗戦し電力も物資もない中引き揚げや買い出しの需要に応える必要に迫られた奥武鉄道に電力の余裕があるわけもなく、しばらくは蒸機列車による長距離輸送を続けつつ配電事業に関しては供給が不安定な状況が続いた. またこれまでに荒川上流域を中心に増設されていた各発電所は戦中の急造工事もたたって早期から老朽化が進んでおり、戦後の関連事業の在り方として大規模発電所の建設による発送電事業の近代化が模索された. 図らずも奥武鉄道が通る福島県側からも県内での関連事業展開に関するヒアリングがあり、奥武鉄道側からも複数の提案がなされたが、当時は数年後の昭和30年代でさえ東京都民の新婚旅行に箱根か熱海というのがせいぜいの時代、都内から会津への観光需要などまだ見込めるはずもなく、福島県との新規事業協議はもっぱら会津の森林資源、水資源をどう活用するかという方向で進められた. 折しも昭和22(1947)年には当時の日本発送電が只見川筋水力開発計画概要をまとめており、これに呼応する形で奥武鉄道が奥会津に自社発電所を設けることを条件にダム建設事業への協力を申し出、昭和25(1950)年にはダム建設のための資材運搬鉄道として「上岩軽便鉄道」を沼田に設立し沼田から尾瀬ヶ原の東側を越えて檜枝岐村に入り奥只見のダムサイトに至る資材運搬鉄道の測量を開始する. この上岩軽便鉄道、出資元は日本発送電と奥武鉄道が30%ずつ、福島県と群馬県が15%ずつに一部トロッコ路線が通過する新潟県が5%、その他通過自治体が残りの5%を請け負うという形であった. 実際にはその後ダム事業の分担を巡って混乱と調整が続き、日本発送電は昭和26(1951)年に解体されて東北地区の事業は東北電力が引き継ぐが、只見川に沿って最も奥に位置する奥只見ダム、前沢ダム、田子倉ダム、滝ダムは昭和27(1952)年に発足した国営会社、電源開発の所管となり、そのダム建設のための資材運搬鉄道建設の技術的支援を奥武鉄道が上岩軽便鉄道を通して行うこととなった. 実は戦前には日本発送電関東支社のプランとして只見川の水源たる尾瀬沼そのものをダム化して関東地方に引水しようという案もあり、上岩軽便鉄道で沼田から尾瀬沼の東側を抜けて奥只見地区に入る鉄道を建設するというプランは只見川の水利の多くを福島県側に明け渡すかわりに建設後の遺産として鉄道を群馬県側に引く、という利害調整の意味合いもあったのだ.
しかしダム事業が始まるとことは予想しない方向に進んで行く. マタギの里として自律した経済活動が行われていた田子倉集落ではダム建設で生活の場としての集落と山の資源を破壊されることに対する反対運動が激化、補償の一環として、只見川下流域のダム建設における資材運搬鉄道として会津川口まで延伸された国鉄会津線をさらに田子倉ダムサイトまで延伸しこれをダム建設後に小出まで通ずる路線として旅客転用するという事項が盛り込まれる. 田子倉ダムを含む上流域の大規模ダム建設にあたって資材運搬を独占する予定であった上岩軽便鉄道としては黙ってもいられず電源開発との間で交渉が続けられるが、電源開発自体が日本発送電の直接的な後任会社でもないこともあって交渉は難航、最終的に奥只見ダムの建設は上岩軽便鉄道によって、前沢ダム(後の大鳥ダム)の建設は新潟県側から枝折峠を越えるトンネル道路を通して、田子倉ダムの建設は会津線の延伸線によって資材運搬が行われることになり、併せて上岩軽便鉄道によって奥会津の林業輸送を行うこととなった. 計画ではダム工事のための資材、人員輸送を沼田から尾瀬ヶ原の東側で上岩峠と名付けられた急峻な峠を越えて南会津郡檜枝岐村内の蛇滝折り返し場に運び、ここから折り返してダムサイトまでは多段スイッチバックとループを含むトンネルを経たトロッコが敷設されてこれに継走する形となり、一方でダム建設地周辺や檜枝岐村内からの林業資源は蛇滝折り返し場で重量貨物列車を編成して伊南川を下るルートで国鉄線の只見に輸送する方針となった(ここで高額な機関車導入にかける予算を最小化するため、蛇滝折り返し場からの林業輸送に関しては上岩峠を避けて下り勾配のルートで木材を搬出し、上り勾配となる蛇滝行きの貨物列車は空荷となるような計画がなされたのである).
昭和32(1957)年には苦難の工事の末に上岩軽便線の沼田~南郷、蛇滝折り返し場~奥只見ダムサイト間が開通した. 上岩峠区間は簡易線規格ながら将来的に大型車両が通れるようにカーブを大きくして建設され、蛇滝折り返し場から北側は軽便線と称しながら国鉄会津線と同等の規格で造られている. 蛇滝折り返し場からダムサイトを結ぶ路線の一部は冬季の豪雪にも耐えうる地下坑道とされ、ここにトロッコが敷かれて資材の輸送を行った. 昭和34(1959)年には遅れて南郷~只見間が開通、多くの駅には貨物列車の離合のために最大有効長330mの交換施設が設けられ、蛇滝折り返し場には巨大なヤードが設けられて昼夜を分かたずに貨車の仕分けがなされたという(その跡地は現在檜枝岐川に沿った七入オートキャンプ場やこれに隣接した巨大な駐車場に転用され、片隅に線路のほとんど引き剥がされて棒線化された蛇滝駅が残っている). 春から秋はマタギを追い出してしまった山での熊出没や渓流での大量のブヨ発生に怯え、冬は山を塗りこめる雪との戦いが待つ、本州最後の秘境と言われた奥只見でのダム建設、それは困難を極めた. 田子倉、奥只見のダム建設の詳細や戦後の経済成長の中窮迫する電力需要を支えるべくダム建設に賭けた男たちの息遣いは曽野綾子の「無名碑」に詳しいが、昭和35(1960)年には戦後ダム建設の金字塔の一つと言われた奥只見ダムの工事も終わり、一旦上岩軽便線のトロッコは役目を終える. この時点では前沢ダム(大鳥ダム)建設に関しても上岩軽便線のトロッコを延伸して使用する案が電源開発から持ち出され実際にトロッコを延伸すべく奥只見ダムサイトから前沢ダムサイトまで10kmにわたってトロッコを進めるための地下坑道が建設されるが、当初から国道352号枝折峠経由で魚沼地方から前沢ダムへの資材運搬を行うことで同意し道路建設資金を投入していた新潟県が猛反発、結局奥只見ダムと田子倉ダムの中間に位置する前沢ダム(大鳥ダム)に関しては予定通り道路による資材運搬の方法が採られ、トロッコ規格に合わせて掘られたトラックの通れない奥只見ダムサイト~前沢(大鳥)ダムサイト間の地下坑道はそのままの規格で鉄道と切り離されて利用されることになり、現在でも電源開発による大鳥ダム保守専用通路として生き残っている. 奥只見ダムの完成とともにこれに付随する形で総出力32万kWの奥武鉄道奥只見発電所が開業、この潤沢な電力をもって宇都宮日光線や奥武本線の電化に目途がつくとともに、余剰電力を用いた配電事業の経営安定化にも目途が立ち昭和45(1970)年には配電事業の連結子会社化(奥武電力)がなされるのである.
さて、奥只見ダムの建設工事が進む中、奥武鉄道と上岩軽便鉄道の間ではダム工事完了後の上岩軽便線の在り方について協議が行われ、上岩軽便鉄道の県、自治体株を奥武鉄道が買い取った後に奥武鉄道に併合することが了承された. 伊南川流域や奥只見ダム周辺からの林業輸送に関しては引き続き下り勾配を利用して輸送を省力化できる蛇滝折り返し場→檜枝岐→南郷→只見のルートで行うことが了承され、併せて奥武本線の終着点白河から当時道路の通っていなかった甲子峠を越えて会津田島、南郷と結び奥武本線と連絡、荷物輸送を含めた貨客の輸送を行うことが決められた. 奥武鉄道としては昭和31(1956)年に天然記念物、昭和35(1960)年には特別天然記念物に指定された尾瀬に将来的な観光地としてのポテンシャルを見出しており、尾瀬へのアクセス路線としての上岩軽便鉄道に目をつけていたようである. 理想を言えば東京都内から直線的にアクセスできる中山道線を群馬県に延伸して沼田で上岩軽便線に接続、ということも目論んでいたようだが、1950年代まで前橋線、高崎線、伊香保線などを営業していた東武鉄道の営業エリアに重なることもあって社内からも慎重論が噴出、東武鉄道の影響下を避ける観点から白河から西進するルートが採られたと社史には残っている.
昭和35(1960)年、ダム建設の役目を終えた上岩軽便線の蛇滝~奥只見ダムサイト間が廃止になった同年には上岩軽便線が駒止峠を越える南郷~会津田島間の支線を延伸、昭和37(1962)年には予定より遅れて甲子峠の長大ループトンネルが完成して奥武鉄道「白田線」が白河~会津田島間で開業、両線はまもなく連絡運輸を開始し、昭和63(1963)年には上岩軽便鉄道が奥武鉄道に吸収されてそのわずか13年間という歴史に幕を閉じるのである.
上岩軽便線はその後沼田~檜枝岐~南郷~只見間が奥武鉄道上岩線、支線であった南郷~会津田島間が奥武鉄道白田線に吸収される形で白田線に名を変えるが、奥武鉄道に吸収された後沿線の尾瀬周辺の環境保護運動が活発化、昭和45(1970)年には上岩線の西側、尾瀬沼の東縁をかすめる予定であった群馬県道/福島県道1号の建設が中止され、併せて上岩線に関しても電化ないし列車本数の削減を求める請願がなされるようになる. 元々は奥只見の水利争いで福島県に敗れた群馬県への救済措置として造られた側面もある上岩線を今度はその群馬県が目の敵にするという何とも皮肉な歴史であったが、ダム資材輸送終了後尾瀬ブームを受けて5往復まで増えていた片品~檜枝岐間の列車本数は昭和50(1975)年に1日3往復まで減らされ、沼田~檜枝岐間で細々と続いていた荷物輸送も昭和57(1982)年に終了される. 伊南川沿いからの林業輸送も下火が続き昭和57(1982)年にはトラックに転換、道路のない白河~会津田島間を除き、旧上岩軽便線区間からは貨物、荷物輸送が消えることになったのである(白河~会津田島間の貨物輸送は甲子道路が開通した後の平成22(2010)年まで続けられた).
奥武鉄道の電力事業近代化と尾瀬観光への参入という野望、そして国策である奥只見のダム開発という中で生まれた上岩線と白田線. 時代があと10年遅かったら尾瀬に関わる開発反対運動の中で建設すらできなかったもしれない上岩峠の鉄路. 旧上岩軽便線が奥武鉄道に組み入れられたあとは元簡易線規格の上岩峠も路盤の強化が行われて21m級気動車のキハ100が導入された. 四季移ろう美しい車窓を眺めながら奥地の山を切り開き電力開発に心血を注いだ者たちの働きに思いを馳せるのもまた良いかもしれない。